備忘録

自分のためだけに書きます

「この町が好き」をトゥアンでひも解く

 

 イー・フー・トゥアンの『空間の経験ー身体から都市へ』を読んだ。

 

空間の経験―身体から都市へ (ちくま学芸文庫)

空間の経験―身体から都市へ (ちくま学芸文庫)

 

 

大学の人文地理学のゼミで彼の「場所愛」という概念がよく出てきた。『トポフィリア―人間と環境』という本で提唱されていて、その時はあまり興味が湧かず、読むこともなかった。しかし働き始めてからいつしか「人は何故地域に惹かれるのか?」という疑問を持つようになり、再びトゥアンに辿り着いた。

 

「この町が好きなんです」とはっきり口にする人は多い。心を洗われに何度も行く旅先、休日や仕事帰りに向かう街角、落ち着きのある自宅前の通り、父母がいる故郷。「この町」といっても、対象や場面、「町」が表すスケールはさまざまだ。景観が良いという人もいれば、その町で築いた人間関係(コミュニティといってもよいかも)を好む人もいる。反対に、人付き合いの煩わしさから逃れ一人になれる所があるから好きだ、という人もいるだろう。

 

●人間の主観を重視した「空間認識論」

 

ここで、町などの地域に物理的に存在する自然や人工物、あるいはその集合体について、人間が何らかの感情を抱いていることに気付く。トゥアンはこの『空間の経験』のなかで、「空間」「場所」「経験」という概念を用いてこうしたことを説明している。

 

経験とは、人が何らかの現実を知り、その現実に何らかの構造をあたえる際の様ざまな様式のことを指す包括的な用語である。それらの様式は実に多種多様であり、嗅覚、味覚、触覚といったより直接的で受動的な感覚から、視覚による能動的な知覚や、象徴化という間接的な様式にいたるまで幅広く広がっている。(『空間の経験』P10)

 

どの感覚器官の働きによって、また、どのような感覚の経験によって、人間は空間と空間的特質への強い感覚を持つようになるのであろうか。この問いに対する答えとして出てくるのは、運動感覚と視覚と触覚である。(…中略…)空間は、まず何よりも、そのなかで運動する余地があるものとして経験されるのである。さらに、人はある場所から別の場所へ移動することによって、方向の感覚を獲得する。(…中略…)人間は、視覚によるのであれ触覚によるのであれ、方向性をもった運動と知覚によって、空間のなかの種々の物体からなる周囲の世界を知るのである。(同P16‐17)

 

空間には、互いにかなり重なり合ってはいるが、神話的空間、実際的空間、抽象的もしくは理論的空間という三つの主要な型を認めることができる。神話的空間は概念として想定される枠組みであるが、同時に、作物の種蒔きと収穫といったような数多くの実際的活動がその枠組みのなかで秩序づけられているという意味で、実際的空間でもある。神話的空間と実際的空間との相違は、後者は、一連の経済的活動だけに限定されているという点にある。(同P24)

 

場所は、ある種の対象である。場所と物体は空間を限定し、空間に幾何学的性格をあたえる。(…中略…)物体と場所は、価値が集中している中心であって、いろいろなものを様ざまな度合で引き寄せたり拒絶したりする。(…中略…)われわれがある物体や場所を全体的に経験するとき、つまり活動的で思索的な精神の知的働きを通して経験するだけでなく、すべての感覚をも通して経験するとき、その物体や場所は具体的な現実性を獲得するのである。(同P25‐26)

 

つまり、直接的な感覚や思考、それに伴う行動が絡み合った「経験」をしながら、人間はある「場所」から別の「場所」へと移動し、「空間」を認知する。そして「経験」はまた、特定の「場所」に対する価値付けもしていく。というわけだ。

 

もっぱらここで言われているのは自分が実際に動いている「空間」だろう。が、概念としての「空間」、例えば行政の都市計画で示される「都市空間」も、人間の感情や思想を概念に具体的な形にしたものだという。結局は、人間の主観をもってしか空間は認識されていない。

 

松田(1999)*1は、トゥアンの空間認識論は個人の主観を重視する自己中心的(決して悪い意味で使っているわけではないのだが)なものだとしている。この場所が自分にとってどんな価値を持ち、場所が点在する空間がいかなるものなのかを個人が知っていく「今」に力点を置いているというのだ。

 

●なぜ「この町が好き」となるのか

 

ここで、「なぜ人は地域に惹かれるのか」という疑問に立ち返る。これまでの理論に沿えば、「地域が好き」は「地域にある場所が好き」に置き換えられるだろう。そして「場所」たりえるために必要なのが「親密な経験」だとトゥアンは言う。

 

「親密な経験」とは、自分にとって「安全」「保護」を感じられることだという。それは他人とコミュニケーションをすること(親や友達…)でも、仕事に熱中することでも、ベンチに座って思索に耽ることでも、感じられるだろう。全て個人的な経験だ。そしてこうした経験は大概無意識にしていて、後になって初めて価値として認識することが多いのだという。

 

故郷の町は、親密な場所である。そこは、優れた建築もなければ歴史的魅力もない平板なところかもしれないが、しかし自分の故郷の街が他所者から批判されると腹が立つ。故郷の町が汚いことは問題にはならない。子供時代に木に登り、ひび割れた舗道で自転車を走らせ、池で泳いだ時には、故郷の町の汚さは問題にはならなかった。われわれは、そのような小さなよく知っている世界を、つまり日常生活のこまごましたものは無限といってよいほど豊かにあるが、しかし高度に想像力を欠いている世界をどのように経験したのだろうか。(同P228)

 

このくだりなどは納得する。性格的に自分の故郷のことをポジティブに捉えたことはほとんどないのだが、他人に「あの町ってつまんないよね」と言われるとなぜかイラっとする。好きという感情が特になかろうとも、幼少期や思春期を過ごした「場所」がその町にはある。逆説的に、その「場所」(だいたい家や学校、通学に使う鉄道の駅、塾につながる坂道とか…)を通してしか町という空間を知らない分、「故郷の町は退屈でつまらない」というネガティブなイメージも持ちうるのだ。

 

ただ「この町が好き」という感覚は、どちらかと言えばポジティブなものだろう。そして「地域」という言葉を用いる以上、「親密な経験」ができる場所が「〇〇市」「〇〇市中心部」として地理的・行政的に括られる地域空間に点在し、その経験をある程度は好意的に捉えているということなんじゃないだろうか。そうすればこそ、「私、この町が好きなんです」という「地域愛」が生まれてくる。

 

そして「この町が好き」という言葉は、毎日を過ごす現住地だけに使われるわけではない。かといって、1度だけのパック旅行で訪れた観光地に使うこともあまりない。

 

住んではいないが行きつけの飲み屋や喫茶店がある町、趣味の音楽活動をしたり語ったりできるライブハウスや仲間がいる町、好きなアニメや映画の舞台が点在する町。そうした日常と非日常の中間地点で小休止ができる「場所」がある町には、「好き」という言葉を躊躇なく使えるだろう。日常を煩わしいものとして捉えているなら尚更だ。

 

長々と書いてきたけれど「この町が好き」というのは、つまるところ町に「居場所」があるということなのではないだろうか。その居場所は日常であってもいいし、日常から定期的に逃げられる「半日常」であってもいい。さらに言えば、町に日常と半日常が同居していてもいい。

 

トゥアンの空間認識論は、空間の中での建造物や人々の生活の形成過程・歴史に重点を置かない(それは人文地理学でも歴史地理や経済地理の分野になるのだろう)ため、物足りなさを感じる面もある。それでも人間が地理的な領域に感情移入をするということは、人口移動やそれに伴う開発を促し、地域構造に影響を及ぼす話でもある。

 

構造と主観、両方から地域を見ることができる。もっと学生のうちに地理学を勉強しておけばよかった、と今更反省している。

 

 

最後に、仕方なく帰ってきた地元で、親密な経験を通して場所を作っていき、段々地元が好きになっていく(=あきらめがつく)例として分かりやすいのがこれ。

 


広島ガスCM「このまち思い物語」第1話

 

*1:松田純子、イ―フ―・トゥアンの「場所」理論について、文化女子大学紀要. 服装学・生活造形学研究 30(1999-01) pp.139-148